− 自然直伝 − 自然に貞く からだに貞く 野口体操

 自然に貞(き)く・からだに貞(き)く 野口体操は、東京芸術大学名誉教授・野口三千三(1914〜1998年)によって創始されました。体育界ではアウトサイダーとして生き抜いた野口三千三は『体操による人間変革』を、戦後50年かけて追及しました。 野口は、『人間の外側から何かを付け加えたり、取り除いたりするのではなく、人間の一生における可能性のすべての種・芽は、現在の自分のなかに存在する』と考え、自分自身のからだの動きを手がかりとして、自分も含めて誰も気付いていない無限の可能性を見つけ育てる野口体操を編みだしました。

 世界に類を見ない独自の方法論を持つ野口体操は、からだの動きを通して人間を見直す"身体哲学"としても、幅広い層の人々に支持されています。野口体操では、生きること、それ自体が創造だと捉えます。そして創造する前に自分自身のからだをニュートラルにしておきたい、と考えます。まず、最初の方法として生きもの本来の在り方を探ります。つまり生きものの特徴は柔らかさにあります。成人のからだの60〜70%が水であることはよく知られていますが、その湿っぽさ、言葉をかえれば「瑞々しさ」が柔らかさを生み出しています。

 野口は『柔らかさとは、変化の可能性の豊かさ』(野口語録)と捉え、柔らかさの別名でもある滑らかな動きを大切にします。こうした野口体操独自の価値観に基づくメソッドを学ぶとき、言葉による誘導は大きな意味をもちます。「身体と意識」「身体と言葉」の関係を探りながら、体操を続けることによって、あらゆる場における「しなやかな生き方」に通じる基礎・基本的な感覚が養われます。そして柔らかくほぐれたからだに出会うことは、「身体と意識」が、丁度良い関係を見つけていく条件としてキーポイントになります。

 「野口体操の会」では、野口三千三没後も、これまでに培ってきた力を抜き・感覚をひらく具体的な方法で、力まず・焦らず・他人と比較せず、生きものとしての瑞々しさを取り戻す野口哲学と動きのエチュードを日々探り続けています。

野口体操とは…

 「初心忘るべからず」と、古来から言われていますが、心を支える技があってこそ初心が現実と結びつきます。そしてその技は、一生を通して磨かれることで、本物になっていきます。その意味から言っても、いつでも戻っていける基本を身につけるのは、できれば早い方がいいということになります。しかし、気づいたときが旬。野口体操は、まるごと全体のからだで、やわらかさ(柔軟性)たくみさ(巧緻性)つよさ(強靭性)といった動きの在り方を、「力を抜く」というベクトルでさぐっていきます。そのキーワードは「重さ」です。何故ならば、生きものは、生活の場を陸に移して以来、重力に適応するように形態・構造・機能を変化させてきました。重力に刃向かうのではなく、重力を味方につけることで、よりしなやかで楽な動き方を身につけていきたいのです。丁度よくほぐされ・ほどかれたからだには、意識的ではなく、その時その場に合った自然な動きが生まれる可能性が高まります。堅いからだのまま、何かを外側に張り付けても、コールドジョイントですぐ剥がれます。血の通った生きもの基本は、まるごとの柔らかさです。柔らかいということは生半可ではありません。そこから本当の力が育ちます。

(社団法人日本劇団協議会 平成11年度文化庁芸術創造基盤整備事業・演劇人のための集中講座案内文/羽鳥操)

野口体操の特徴

 野口体操は頑張りをすて、体の力を抜き重さに任せることによって生まれる、ゆらゆらと揺れる気持ちのいいを動きを基本としています。辛い訓練に耐え努力・我慢して強くなろうとする在り方はとりません。自分にとって楽な在り方を見つけようとする姿勢を大事にします。楽であるということを積極的な「ゆとりの概念」として捉えています。所詮、無理は無理だからです。しかし、『無理をしなければ無理ができる(野口語録)』とも考えています。

 したがって野口体操は、量的価値観による筋肉増強を主目的とする従来の体操観を、根底から覆す理論と方法によって成り立っています。まず骨格と筋肉で構築された解剖学的な身体観を、重さの方向(地球の中心)を念頭におき、現実の動きに即して見直すことからはじめます。いわゆる体が硬いという状態は、筋肉が必要以上に緊張し続け、その結果として過労になっているところからおこります。力こぶに象徴されるように、筋肉は能動的収縮性緊張をすると「短くなって、太くなって、固く」なります。従ってそのような状態のまま体を使い続けると老化が早まります。本人の意識はどうあれ、ストレッチを行うときまで緊張を強いた状態のままということは、不合理なやりかたであるといえます。筋肉は力を抜けば「液体的」に柔らかくなります。この液体的なイメージで体をほぐすことから得られる実感が、生きる基礎感覚でありたいと野口体操では考えます。

 何時の時代でも、何の世界でも肩の力を抜くことの大事さはいわれ続けています。余分に力が入った状態では、感覚が鈍くなるからです。そのことによって動きがぎごちなくなるからです。したがって丁度よくほぐされ・ほどかれた柔らかな体からは、滑らかな動きはもちろんのこと、力強い動きや早い動き、武道的な決まる動きも可能になります。
次の瞬間働くことができる筋肉は、今、休んでいる筋肉だけである(野口語録)』

 全身の筋肉のうち、大ざっぱにいって半分位の筋肉が休んでいるとき「いい動き」が生まれる可能性が豊かな状態だとえます。そこから野口体操では、地球の重力を感じ取る「感覚」を大切にします。
 試みに生卵を立ててみてください。生卵は、つっかい棒をしなくても、接着剤をつかわなくても、卵の重心が地球の中心方向・鉛直方向に一致したとき、それ自体の重さで立つことができます。人間が立つときも原理は同じです。いちばん楽な立ち方は、余分な力が抜けて体の重さが活きている状態を見つけられたときなのです。鉛直方向に体の主軸(長軸)が一致したときです。そうなったとき、少ない筋肉で骨組みを支えることができます。そこでまっすぐな状態になった骨を「支え」にして、「ぶら下げ」られている部分が多くなります。まっすぐに楽に立つこと・まっすぐに楽に逆立つこと、その基本の動きとして骨盤を含む上体を股関節からぶら下げる『上体のぶら下げ』という動きがあります。

野口体操・動きの理論の特徴

 動きの主エネルギーを、筋肉の収縮力に求めていく従来の体操の在り方とは異なり、動きの主エネルギーは、体の「重さ」だとする理論によっています。野口体操では動きをどのように捉えているのでしょう?

バランスがとれなければいい動きはうまれない、と、バランスが崩れなければ動きはうまれない。動きはその狭間で成り立っている(野口語録)』
 一般には二つの矛盾すると思われる在り方を、‘一つの系’の出来事として捉えます。別言すれば‘関係’として捉えていきます。そのことから動きの理論のなかに‘時間の概念’が入ってきます。
 まとめてみると、野口体操では「力」を筋肉の量と筋肉の収縮力の強さに、「柔らかさ」を(ほぐした結果そうなるとしても)関節が広い可動域を得ることに求めません。
 人間にとっての本当の「力」とは、感覚が豊かであること、体のなかの微妙な差異を感じとることができること、だと捉えます。では筋肉はどんな働きをするものなのでしょうか?『筋肉は動きのきっかけをつくり、動きの微調整する(野口語録)』と考えます。

 このように野口体操では、最小限のエネルギーで、よりよい動きの在り方を見つけていきます。現代人が筋肉を過信し、筋肉に頼りすぎて生きていることによって失ってしまった生きものとしての‘原初感覚’を取り戻したいのです。すべての動きを力によって強引に解決しようとするガンバリズムから卒業したいのです。
 同じように私たちは、意識によって何でも解決できると思い込んではいないでしょうか。人間の予測能力は極めて小さく、意識至上主義は人間をがんじがらめにしています。意識も筋肉も大事だからこそ無駄使いはしない、という姿勢が野口体操を貫いています。
 余分な力が抜け、体がほぐれたときいちばん楽な在り方を、まるごとの体が見つけてくれます。その感覚を実感することが「いい動き」を可能にします。当然のこととして重さが生きている体からは、すっきりしたまっすぐな姿勢が無理なくうまれます。
  野口体操では、「柔らかさ」とは、変化に応じてふさわしい中身の在り方や動き方が、その人の生きるリズムのなかから、その都度新しく生まれてくることだと捉えています。
柔らかさとは、次の瞬間における変化の可能性の豊かさである(野口語録)』

野口体操で大事にしている姿勢

 自然は常にまるごと全体として存在し、漠然としたものとして現われているものです。したがって足の運動・腕の運動というように、部分に分けて行うことはありません。現在一般に行われているトレーニングは、ストレッチ、有酸素運動、筋力トレーニング等々というように、分析的な訓練をしているようですが、野口体操では、まるごと全体の有機的なつながりを大切にしながら、自然の生きものとしての在り方を、新しく見つけることを目指しています。

 そのことを体でつかむために、天地自然の大本に遡って『からだに貞く・自然に貞く』つまり、『自然直伝』を基本としています。他人とむやみに比較せず、今、ここにある自分自身の体を痛めつけず、けなさず、やさしさをもって体操を行っていきたいのです。

 まずは中身の変化を大事にします。形は中身の変化の現われです。結果として生まれてくるものです。じっくり時間をかけて中身の変化を感じ取る「感覚」を育てたいのです。
 野口体操では、その具体的な方法・感覚をひらく体操の仕方が、広い視野にたってさまざまな観点から工夫されています。それらに共通して流れている考えは、次の語録です。

『一つの筋肉の収縮速度はたかが知れている。次々に伝わっていくうちに高速度がうまれるつながりの構造を、内的に創りだすことが大切である。[鞭の原理](野口語録)』

野口体操のキーワード

「重力」と「重さ」

宙がえり 何度もできる無重力 着地できない このもどかしさ
 宇宙飛行士・向井千秋さんが詠まれた和歌です。
  ものの本によると、無重力といってもまったく重力がなくなるのではなく、宇宙船が地球から離れようとする遠心力と、地球の中心に向かう重力とが、釣り合って生まれ、見かけ上の微小重力状態なのだそうです。しかし人間くらいの大きさの生きものにとっては、この微小重力状態というのは、無重力といっても差し支えがない状態だとか。
 ここでごく簡単にいくつかの言葉のおさらいをしておきましょう。
 「重力」とは、引力+遠心力。
 「万有引力」とは、すべての物体には引き合う力が働くこと。地球上では地球の引力が強いので、無生物も生物も地球の中心に引き寄せられます。地球上のすべてのものは結果として安心してここ(地球上)にいられるのです。

 実は、野口体操では、重力という言葉に加えて「重さ」という日常の言葉をつかいます。むしろこちらの方が多用されています。何故か? というと、それは日常の暮らしの感覚を大事にしたいという考えによります。
 「おもさ(重)」とは、地球上の物体に働く重力の大きさ。物体の質量と重力加速度との積に等しい、と広辞苑にあります。実際には重さという言葉を使う私たちは、広い意味をもたせています。「おもおもしい」とか「手あつい」とか「幾重にもかさなる」。「おも」という語根は、主になる意味の「おも」、考える意味を含む「おもう」。人や物や事を大事にする意味の重んじる「おも」と共通します。こうした生活感覚と結び付いた「重さ」という語感を大切にしながら、体ほぐし・体ほどきを行っていきましょう。
 聖書ならば、始めに「ロゴス」ありきですが、野口体操では、始めに「おもさ」ありきなのです。
 では日常生活のなかで、同じ様な二つのものの重さをはかるとき、あなたならばどうなさいますか。秤を使わない場合は中身が壊れない程度に、丁寧に揺すりませんか。じっとしていたのでは差が分かりません。そこで自分のからだの重さを実感するには、かるく揺すってみます。ここから野口体操の方法に「揺り・振り」が入ってくるのです。