静かなるほぐし
- 中心、重心、鉛直軸、重力軸 -

ブログ「羽鳥操の日々あれこれ」より


2012.1.28

 本日、朝日カルチャーセンター土曜日クラスのレッスンは、野口体操に出会って、最初の15年間は徹底して行った「私の内なる静かなるほぐし」のありようをお伝えする。
そう思いたったのは、今週の水曜日1月25日NHK「ためしてガッテン」を見たことだった。
終始、方法に徹してみたい。いちばん大切なことは「とらわれない自分」であること。
板書の一部をここに記しておきたい。




※ NHK「ためしてガッテン」を見た。「前屈運動」が固い人は、血管も固い。概して脳梗塞や心筋梗塞になりやすい傾向にある。言ってみれば、「硬いということは、血管内側の壁をつくっているコラーゲンが、糖化して黒く硬くなった状態」にある。それを元に戻すには「ストレッチ」が有効である、と結論づけていた。
まったく間違っているわけではないが、まったく正しいわけではない。
ただし、からだが柔らかいということは、生ものとして快適に生きる一つの条件である。
私が野口体操に出会って、少なくとも15年間はやり続けた「静的なほぐし」を、時間をたっぷりかけて贅沢な条件でお伝えする。


* イメージとしてからだを裸にし、なにがあっても受け入れる覚悟をする。
* その一方で、頭に浮かんでくることを流し、取り合わないこと。
* ここ(教室)では、周りでどのような動きがあっても、集中を途切れさせないようにする心がけをもつこと。
* 具体的には、音を聞き流す。他者の動きに対していちいち反応を返さないで、とらわれないように心がける。
* 体の重さを分けて解いて、浸たす、溶かす、満たす。
* 呼吸(息を吐いている)しているだけの自分を味わう。
* 内側から伸ばす、ほぐす意識をもち、或る程度ほぐれを実感できるようになったら、筋繊維一本ずつ分けてほぐして、丁寧に伸ばすイメージをもつこと。
* 一回目は「揺れ」を活かしながら、二回目は「揺れ」を止めて行います。
* 呼吸は、吐く息だけを意識します。
* 反動を付けないように。じわじわと伸ばします。どこが伸ばされているかを体の内側で探りながら行います。
* 途中でトイレに行きたくなったら、行ってください。用を足したあとの快感を、じっくり味わうように。
* 目は閉じても閉じなくてもいい。そのときのからだに任せること。
* 最後に「座禅」をして、「ヨガの逆立ち」で、一つのまとまりを持たせる。
* 野口先生の言葉『痛いという一言に逃げ込まないで、痛みの質感を味わう』
* 違いのわかるからだ(私)になろう。

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2012.1.30

 土曜日のクラスで、はじめて丁寧に「静かなるほぐし」を、時間をかけて行った。
日曜日は、同じテーマを撰ぶことに躊躇いがあったが、テーマは同じでも色合いを変えて提示してみた。
両日ともに、感じたことは「静かなるほぐし」は、贅沢なテーマだということが改めて解った。
自分自身のからだに向かい合う、その方法を前のブログに書いたことを活かしながら・味わいながら行うというのは、日常的にはかなり難しい。しかし、こうした向かい合い方をすることで、開ける世界は貴重な経験である。


 いちばん近いことを挙げると「只管打坐」、世俗にあってもひたすら坐禅に打ち込む時間をもつことに近いかもしれない。つまり、野口体操で選び出した一連の「座位によるほぐし」に徹すること。
ただしこの行為は、老師を撰ぶように、指導者を撰ばなければならない。教える者にはそれ相当の覚悟が求められる。


 土曜日のブログに書いたことを長期にわたって継続することは、もっと難しい。
自分と世界の対話、自分と社会の距離感。「只管」という行為は、或る意味で人生を、或る事柄に投げ出すことでもある。お任せする行為であるから安易には入っていけない。
しかし、自分のからだを「静かなるほぐし」に委ねることは、自分自身によく気づくことである。
そして対峙した世界や社会に対する理解が深まるところまで到達しなければ、一生を棒に振りかねない。
よい意味での「ちょうど良い折り合いのつけかた」を身をもって探り、身をもって経験することでもある。折り合いを「距離感」と言い換えることも出来る。「距離を測る」「間合いをはかる」、その感覚を磨くことであると言える。これが、実に、難しい。


 ほぼ15年、徹底して「静かなるほぐし」を行っていたという自負をもっていた。いや、本当にそうか?と自問している。
ここに身を置くことは、はじめのうちこそ苦痛を伴った。
「こんなことをしていたら、社会人として生きられない」
「自分の人生はいったいどうなるのだろう」
そうした問を繰り返したこともあった。
しかし、そこにはまってくると、居心地のよさが感じられるようになる。
もっと先がありそうだ。もっと豊かな身体を生きられそうだ、と思えてくる。
同時に自分自身のなかで「ひとり完結」していく穴に嵌まってしまう危険もはらんでいた。事実、穴に嵌まったのかもしれない。そこから這い上がれたのは、野口の死後だった、と今は思う。
つまり、野口体操の面白さは、ある種の危険をともなう身体との対話でもあった。


 しかし、外の世界ばかりに気をとられ、常に他との競争に身をさらし、他人の下す評価を気にして、本当に生きたい自分を押し殺して生きざるを得ないなかで、時として自分のからだと静かに対話する時間をもつ、たとえば坐禅に只管な自分を得る、そうしたことの意味を実感できたことは確かだった。


 そんな中で「野口体操の身体思想を社会化することができないだろうか」という思いをしっかりと自分が受け止めるには、十数年が必要だったし、行動を起こすにも時間が必要だった。むしろそうした行動をとることで、どこが間違っているのか、どこが危険なのか、どこに確かなことが潜んでいるのか、を考えるきっかけをもらえた。


 忙しい日常、変化に追いつくだけの日常、変化に追われるように何かにしがみつく日常がある。そこからちょっとだけはずれて、本来の自然さに身を浸し満たす時間を得るということは最高の贅沢であると、今回、土曜日と日曜日のレッスンを終えて、確信した。
他者とのかかわり、家族との絆を断ち切ることではない。外側に開かれたコミュニケーションを否定することではない。むしろ絆を結ぶために、本来のコミュニケーションをとるために、欠くことができない前提条件であると思う。
野口の言葉を借りるなら『多様な価値観の究極である“個の自由”を求める営みが体操である』。
自立した個人があってはじめて他者との本当のコミュニケーションが成り立つのではないか。
「静かなるほぐし」は、私にとっての「只管打坐」であったが、他の誰かにとってもそうあってほしいと願っている。それを伝える教室がある、ということの幸せ。
そうはいっても、自分自身、まだまだだなぁ~、という深い感慨!に浸っています。

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2012.1.31

 これらのほぐしの姿勢は、座った姿勢か寝転んだ姿勢が多い。
床に接しているからだの部分が広いということでもある。
この場合、立った姿勢よりも鉛直方向への“直線的意識”は生まれてこない傾向にある。
からだの力を抜いて、液体的に流れていくイメージでほぐすのだけれど、それでも鉛直方向感は持ち続けたい。 崩れる方向は接しているからだの真下であり、中心点のような「場」を探っていくことになる。案外それが難しい。正座している、結跏趺坐の姿勢をとっている時の脊柱は、直立姿勢であるために、鉛直方向感は掴みやすいかもしれないが、その場合でも余分な力みがあると鉛直軸を通すのは難しそうだ。
 多様なからだの動きをする場合には、脊柱はまっすぐ伸びている(S字曲線)わけではない。動きにつれて湾曲し、動きの方向に微妙なたわみが生まれる。
そのなかで鉛直軸をその都度感じとる感覚を大切にすることを忘れやすい傾向にある。そうした感覚を掴むだけでもかなりの時間がかかってしまう。厳しい現実だが、実際に筋肉が緩まなければ、その実感はついてこないからだ。
表に現れる形のことではない。からだの内側の小さな微妙なほぐれ感を捉えることからはじめる。


 足で立った場合も、正座や結跏趺坐の場合も、野口体操の静かなるほぐしの場合も、鍵となるのは「柔らかな鉛直軸」を通す感覚を養い磨くことだと思う。人間のからだは鉄の棒のつながりではない。鍵がかかって動かない関節では困る。全体として緩やかな変化に対応する関係を保つには、余分な力が抜けることが第一条件である。
丸ごと全体のからだの動きの質感の中身に、液体的というイメージが定着してくれたら相当にほぐれていると言いえるのだろう。
このテーマは言葉にのせて書くのは難しい~。

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2012.2.2

 野口体操に出会って、はじめの15年は「静かなるほぐし」に、多くの時間をあてたように記憶している。
そのうちの10年目くらいになって、ようやく逆立ちの稽古を本格的にはじめた。
その頃から自宅でも立って行う動きなども、ひとりの稽古に組み入れた。このような亀の歩みに、野口の我慢が切れなかったことが不思議なくらいだ。相当にイライラが募ったのではないか思う。
ゆっくりの理由は、からだの内側からほぐれた実感が持てなければ、レッスンの場ではともかく、一人では不安があったからだ。そうした僅かに発する危険信号をキャッチする能力だけは、しっかり持ち合わせていたようだ。よくも悪くも、裏表の関係にあるのだが。


 さて、20年目にして『野口体操 感覚こそ力』を上梓させてもらった。自分自身のなかで野口体操をどの程度理解しているかを外側に出してみたかった。存命中の先生に原稿をすべて読んでいただき、赤を入れてもらえたことは、今となっては幸運としか言いようがない。
 そのなかでも「野口体操 動きの理論」の章は、野口から話を詳しく聞くことができた。
からだを柔らかくすることにつれて滑らかな動きを導くために大切なことは「梃子の原理」をイメージとして描くことができるか、が問題だということを教えられた。
 立って行う動き、静かなるほぐしの動き、共通に「梃子を短くするイメージ」を持つようにと強調された。初めは意味が分からなかった。しかし、どうやら、そのことが動きにとってほぐし行為にとって問題だ、ということだけは理解できた。


 このブログを書きながら、『野口体操 感覚こそ力』春秋社 174ページ~を読みなおした。
《『動き』を中心にして、からだの構造を、いちばん単純にいうと、それは『梃子』の原理で成り立っているんです。例えば、脚を例にとります。骨格筋というのは、一つの骨から始まって関節を通り越し、他の骨についています。そして、一つの関節の動きに関係して、反対の働きをする二つの筋肉(拮抗筋)によって、単位の関係が成り立っています。片方の筋肉が収縮して、脚は伸ばされたり、他の片方の筋肉が収縮して曲げられたりします。滑らかな動きを求める場合、実際にある骨の長さでは、長過ぎる場合が多いんです。そこで、僕がいつも言っている、ほぐすことによって『柔らかなからだの動き』の意味が出てきます。骨が相当に長い梃子、だとすると、固いまま動くとたいへん重いんです。つまり、動くエネルギーがたくさんいるわけです。梃子は、重さの大きさと距離との積でエネルギーが示されます。したがって動く場合の梃子は、短い方がいい。できるだけからだの中をほぐすということは、からだのなかを『短い梃子』に変えることなんです。その時のからだのすべての関節の複雑微妙な関係のあり方でそれぞれが可能なのです。》
ここを読むと野口体操が「イメージ体操」と言われる所以が納得できる。


 こうして「静かなるほぐし」で、ほぐしそのものに動きがともない、次に他の姿勢に変えるときなど、液体的なイメージと同時に、この「短い梃子」のイメージを同時に持っていないと、重さを活かす動きは生まれないということを実感するまでには、余分な力がぬけることが条件になる。


 液体的なからだ、そのからだの内側に存在する内骨格としての「骨」、それらの微妙な関係の取り方こそが、「ある激しさをもつ動き」「立位のほぐし」、「素早い動き」「滑らかな動き」、そして「静かなるほぐし」、すべてを通して貫かれていることだ、と教えられた。


 ここにきて問題にしている、液体的なイメージのなかに「鉛直軸」を求めることと、その時々に変形する「骨格の形」をつくる骨をつなげる関節、そうしたなかに「中心点」を求めることと、時々刻々動きにつれて変形するからだの縦軸のなかに「重心」を求めることと、それらが複雑に絡んだからだの内側に感覚を集中させることが、稽古のひとつの目的でもある。だから時間が必要なのだ。それは焦らずゆったりと流れる時間のなかで求められてほしいのだ。


 さらに176ページには次のような記述がある。
《『中心というのは、動きの支えになる点のことを指します。それに対して『重心』というのは、ものの形の違い・ものの内部の比重の違いから、必ずしも見かけの中心とは限らないことがある、ということです。動きにとって難しいのは、動きの支点になる中心と、バランスになる重心の関係なんです。つまり『梃子』と『振り子』は、動きにとっては兄弟のような関係にあるということなんです。》
梃子に対して「振り子」という概念も加わっている。さらに動きを複雑にするのは、人間のからだが単振り子ではなく、関節がいくつもつながった多重振り子である、という点に集約される。


 液体的な筋肉と骨の関係、少ないエネルギーで支えられる骨格。構造を生ものの動きとして支え成り立たせる「中心」「重心」・「重力軸」「鉛直軸」、それらを実感として捉える稽古は、稽古のなかの稽古と言えるに違いない。もし、野口体操が難しいと言われならば、ここにこそ問題が潜んでいる、と言えそうだ。